アリスの本棚

読んだ本の紹介をしていきます。

何者

 

何者 (新潮文庫)

何者 (新潮文庫)

 

 表紙にこの6人の顔写真があったから手に取った。

岡田将生だ! 二階堂ふみだ!

え、これ、佐藤健???

てか、すごいキャスティングだ~

どんな話かなー?

むむ?「桐島、部活やめるってよ」の著者か~

おもしろいかも??

 

てな感じで手に取った。

裏表紙を読むと、

・就職活動を目前に控えている

SNSや面接で交わす言葉の奥の本音や自意識が次第に彼らの関係を変えていく

とか書いてある。

 

桐島、部活やめるってよ」は高校生の”所属意識”のようなものが

中心に描かれていた気がする。

 

これはSNSとリアルでの人間関係のずれ(本音と自意識のせめぎ合いというか)

のようなものを描いている気がする。

この小説の登場人物は1人を除いてツイッターをフォローし合っていて、実際に会って就活対策をしたりする。互いに互いのツイッターもチェックしている。

でも、実際に会って話す内容とツイッターでみる内容に少しずれがあったりする。

 

私はツイッターは見るばかりで自分からツイートしたり友達や見知らぬフォロワーと交流したりすることもほとんどないけど、若い人の間ではよく利用されてて「裏アカ」をもってる人もいるとかいないとか。

 

「裏アカ」は、実際の友達には絶対に知らせず、他人の目を気にせず、匿名で好き勝手なことをオンライン上でつぶやくためのものらしい。あえてオンライン上でつぶやくのは、見知らぬ誰かに読まれてリツイートなりフォローなりされると嬉しいから。承認欲求がみたされるから。自分が「何者」かになったような気分になれるから。

 

就活生になるということは、世間に流されてるとか、没個性的などと揶揄したり批判したりする人がいる。

「自分はそういう世間の流れには流されず「自分」をもって行動できる。すごいだろ~」みたいなことをやたらツイッターにアピールしたりする人がいる。

 

本音をかくして、周りにはすごい人、かっこいい人、いかしてる人みたいな、「何者」かになったつもりで振る舞う人。そういう人は、「自意識が強い」人だと言える。

 

一方で就活では、面接のときには自分を本物の自分以上に有能な人に見えるようにアピールしないといけない。「何者」でもない自分を無理やり「何者」かであるように、大学時代に打ち込んできたこととかについて、面接官に話さないといけない。

これは、得意な人と苦手な人がいる。

「自意識が強い」人は、きっと嫌な気せずにできるんだろう。

でも、そうでない人は、自分を大きく見せることに抵抗があるのかもしれない。

でもとりあえず、自己PR文を練って、それをすらすら話せるように暗記して練習して、みんな乗り越えているんだろう。

 

あ~長ったらしくてわかりにくい文章だなあ。。。

朝井さんが表現しようとしてるものはとても抽象的なんだけど、

SNSと現実の両方での人間関係のずれみたいなものってSNSやってる人ならなんとなく

理解できる気がするから、読みながら共感するところはたくさんある。

 

自分もこれを読みながら自分の自意識の強さだとか承認欲求の強さだとかSNS依存みたいになってることについて考えた。

なぜ私はフェイスブックに自分の写真をアップしたいと思うのか?

なぜ非公開にせずあえて友達に公開したいのか?

なぜ「いいね!」の数を気にしてしまうのか?

とかね。

結局私も、現実の生活以上にキラキラして見えそうなSNSの世界で、

「何者」かになった気でいたいのかな。

 

SNSがなければこんな気持ちにはならなかったかもしれない。

実際、私の友達でもフェイスブックなどのSNSは一切やらない人もいる。

その方が、精神的には健康でいられるのかな。

SNSを通してほかの人の生活が見えると、それと自分の生活とを比べてしまったり。

リア充アピール合戦。

そんなつもりないのに、結果的にそうなっている?

でも今さらやめられないし。。。

 

そんな感じで、SNSにどっぷり浸かってる身としては、

小説の中の登場人物の言葉なんかでグサッと心に刺さるものがあった。

以下抜粋。

 

ほんとうにたいせつなことは、ツイッターにもフェイスブックにもメールにも、どこにも書かない。ほんとうに訴えたいことは、そんなところで発信して返信をもらって、それで満足するようなことではない。だけど、そういうところで見せている顔というものは常に存在しているように感じるから、いつしか、現実の顔とのギャップが生まれてきていってしまう。

 

ほんとうに大切なことはちゃんと会って、面と向かって伝えた方がいい。

オンライン上の顔はその人のほんの一部でしかない。

それがその人の全部だと勘違いしてしまうと、現実の顔とのギャップが広がっていってしまうんだろうな。

 

私たちはもう、たったひとり、自分だけで、自分の人生を見つめなきゃいけない。一緒に線路の先を見てくれる人はもう、いなくなったんだよ。進路を考えてくれる学校の先生だっていないし、私たちはもう、私たちを産んでくれたときの両親に近い年齢になってる。もう、育ててもらうなんて言う考え方ではいられない。

 

私たちはもう、そういう場所まで来た。

 

ただのバイトのくせに「仕事行ってくる」って言ってみたり、あなたの努力が足りなくて実現しなかった企画を「なくなった」って言ってみたり、本当はなりたくてなりたくて仕方がないはずなのに「周りからアーティストや編集者に向いているって言われてる」とか言ってみたり、そんな小さなひとつひとつの言い方で自分のプライドを守り続けてたって、そんな姿、誰も知らないの。誰も追ってくれていないの。

 

隆良くんは、ずーっと、自分がいまやっていることの過程を、みんなに知ってもらおうとしてるよね。そういうことをいつも言ってる。誰かと知り合った、誰かの話を聞いた、こういうことを企画してる、今こういう本を読んでる、こういうことを考察してる、周りは自分にこういうことを期待してる。

 

十点でも二十点でもいいから、自分の中から出しなよ。自分の中から出さないと、点数さえつかないんだから。これから目指すことをきれいな言葉でアピールするんじゃなくて、これまでやってきたことをみんなに見てもらいなよ。自分とは違う場所を見てる誰かの目線の先に、自分の中のものを置かなきゃ。何度も言うよ。そうでもしないともう、見てもらえないんだよ、私たちは。百店になるまで何かを煮詰めてそれを表現したって、あなたのことをあなたと同じように見ている人はもういないんだって。 

 

この長いせりふを言うのは、有村架純演じる瑞月。

言われるのは岡田将生演じる隆良。

(役のイメージと合いすぎてすごく簡単の想像できる。。。)

十点とか二十点とか、未熟だと自分でわかってる段階で出すのはすごく抵抗がある。

のはすごくわかる。妥協したくないというより、きっとこれは自分のプライドを守るためなんだろう。かっこわるい仕事してるところを周りに見られたくないんだろう。

未熟だとわかってても出すのは、それは勇気がいる。

失敗を恐れない勇気。

でもそうやって出していかないと、結局いつまでたっても成長できないんだろうな。

この瑞月の言葉を読んで、とてもぐさっときました。

 

よく、語学習得の近道は、覚えた単語から積極的に使うことだって聞く。

発音とかいろいろ間違ってもいいからとにかく使うことだって。

でも私にはそれがどうしてもできない。

間違えることをかっこ悪いことだと思っているから。

だから上達も遅いんだよなー。

 

でも、仕事をしてる時は、そんなかっこつけたり取り繕ったりする余裕もなくて、

めちゃくちゃかっこ悪い。それなのに、さらにかっこ悪い姿をさらすことをためらっている自分がいる。「新しいことをやってみたい」って心の中では思っているのに、失敗したら、とかどうせ~、とか考えて、結局やらないとか、、、よくある。。。

あ~~~難しいな~~~。